自然の摂理ではありますが。

歳を取れば、そりゃあ、いつかは命途絶えるものです

うちの犬、いまは元気に吠え散らかしてるけど、今年の夏に一回ガチで死にそうになって

まあ、歳だしなというのは分かってたけど

結構落ち込んだし

死んだわけじゃないのに、ほんと涙でるって感じで

 

いま、犬が落ち着いたとおもったら

今度はじーちゃん

全然関係ない話するけど

小さい時、男の子はーくんで、女の子はーちゃんって呼ぶのが普通で、じーちゃんはなんで男なのにーちゃんなの?って聞いて

おかしいよね!ってずっと言ってたの

だから、じーくんって呼んでた

 

そんな話はさておいて

まじで、ずっと会ってなさすぎて、ほんとに実感がない

やね、話は聞いてたのね

ガンがあったり、脳梗塞になったりっていう

でもまあ、それも歳だから、大変だとは思いつつも、そんなにすげーびっくりする事もなく

今日まできたのね

 

今日急に連絡きて

もう、もちませんみたいな感じで

 

親は実家帰るんだけど、私はいけなくて

多分もう会えないんだろうけど

一個だけ聞いてみたい

いま、じーくんが、私と同じくらいの歳になったら、なにする?って

何をやりたいと思うのかなあ

何を後悔してるのかなあ

そんなことを聞いてみたい

 

そして、こういう緊急な時とか、冠婚葬祭って

大変なのはそうだし、悲しいのもそうなんだけど

親族が久々に会うことができる、唯一と言えるほどの機会なのね

これを、大切にすべきだと思うの

こんな事言うもんじゃないけど、こんなことでもないと、なかなか集まらないもんなのよ

だから、じーくんに会いに行くのはもちろん、従兄弟とかにも会える機会として、行きたいな

 

 

今年の夏に犬が死にかけた時に思ったことがあって

それ、メモに残したまま、ブログに書いてなかったから、書くわ

ちなみに、犬の名前はサンタ

 

題名: 何かを失う怖さをあらかじめ対策することはできない

はじまりがあれば、終わりがある

それはそう

みんなわかってる

でも、そんなことはないと、信じたくないと思うこともある

それは、死と向き合う時

まさか、いや、そんなはずはないとどこかで思っている

でも、絶対に終わりは来るから

それは、理論としては理解する

けど、身近であればあるほど

信じたくない気持ちが大きくなる

できることを全部しようって、ドタバタするほどに、後悔は大きくなる

もっと、できたことがあるんじゃないかって考えてしまう

関われば、関わるほどに、足りない気がする

自分には何ができるのだろう

何ができたのだろう

私は、サンタにとって、どんな存在だったのだろう

幸せを与えられた?とか、そんなことを考えていると

サンタが私に与えてくれえたものってすごい大きいんだなと実感する

こんなに体は小さいのに、すごいパワーを持ってるって実感する

結論、私が、何かできたわけじゃないし、何もできない

それが自然の摂理だから

ただ、与えてもらってることをちゃんと実感して感謝して、学ぶ姿勢は大切

そして、私も誰かに何かを与えられる存在になろうと思うこと

与えてもらった分、それ以上にでも、誰かを幸せにする、または、誰かに幸せを分けることができる、愛深い人になろうと思う

こんな、私如きが思うほどのことじゃないかもしれないけど、私が死ぬ時に、誰かに、「この人みたいに幸せを与えられる人になりたい」と、学んでもらえる人間になる

学んだ分、学ばせる人間になる

それに相応しい、日々を送る

いけないことをする日もあるだろうし、失敗もあるし、悪いこともたくさんあっていいんどけど、いいことばっかり、頑張れる日ばっかりじゃなくていいんだけど、

人生をやめないということは大切だと思う

諦めないんじゃない、諦めてもいいんだけど

やめない

続けること

やめなきゃ、だいたいなんかいいことあるから

その姿勢に、何かを学ばせられるから

それなりになれるから

 


そんなことを、思ったから書いた

 

こういう、何かがあった時こそ、何もなかったかのように、日常を淡々とこなすという精神力がプロだよなあ

明日も明るく生きられるかな!?

相手に悟らせない、察させない、察してほしいと思わない

これでいこう